君は「アニメンタリー決断」を知っているか

登場人物

山本五十六 [やまもと いそろく]

山本五十六

第1話「真珠湾奇襲」、第2話「ミッドウェイ海戦(前編)」、第3話「ミッドウェイ海戦(後編)」、第8話「珊瑚海海戦」、第18話「山本五十六の死」に連合艦隊司令長官として登場。
第1話では連合艦隊旗艦「長門」で真珠湾攻撃隊の突撃信号を直接傍受、全海軍部隊に戦闘開始を命令した。
第2話・第3話では連合艦隊旗艦「大和」に乗艦してミッドウェー海戦に参加。
第8話ではMO機動部隊に敵機動部隊の追撃を命じる。
第18話では一式陸攻に搭乗してラバウルから前線視察に向かう途中、米軍機の待ち伏せ攻撃を受けて戦死する。

<略歴>
1884年4月4日生~1943年4月18日没
新潟県出身
日本海軍軍人
元帥海軍大将
海兵32期、海大14期
開戦時の連合艦隊司令長官とその悲劇的な最後が有名。
海軍航空隊の育成に貢献。
日独伊三国同盟の締結に反対、対米英開戦反対派であった。

1884年4月4日父「高野貞吉」、母「峯子」の六男として誕生
父「貞吉」が56歳の時に誕生したので「五十六」と名付ける
高野家は旧長岡藩士120石の家柄、祖父・高野秀右衛門は戊辰戦争で戦死、父・貞吉も銃士隊に加わって戦った
明治の時代になってからは県庁の役人や小学校長を務める
1890年長岡本町坂之上小学校入学
1896年長岡中学校入学
1901年12月16日海軍兵学校入学、入学時の成績は2番
1904年11月14日海軍兵学校を7番の成績で卒業
海軍少尉候補生に任じられ練習艦「韓崎丸」で練習航海に出る
1905年1月3日装甲巡洋艦「日進」乗組
1905年5月27日日本海海戦に参加、艦長の伝令を務める
1905年5月27日バルチック艦隊の敵弾が命中して負傷(砲身内部の暴発事故との説もある)、左手の指2本を失い、右脚を大火傷する重傷を負う
ちなみに指を3本失うと退役させられる
1905年8月31日海軍少尉・横須賀鎮守府附
1905年12月12日横須賀海兵団付
1906年2月24日巡洋艦「須磨」乗組
1906年4月1日日露戦争の功により勲六等単光旭日章及び金350円授与
1906年8月3日戦艦「鹿島」乗組
1906年12月20日海防艦「見島」乗組
1907年4月22日駆逐艦「陽炎」乗組
1907年8月5日砲術学校普通科学生
1907年9月28日海軍中尉
1907年12月16日水雷学校普通科学生
1908年4月20日駆逐艦「春雨」乗組
1908年6月15日巡洋艦「阿蘇」乗組
1909年10月1日巡洋艦「宗谷」分隊長心得
1909年10月11日海軍大尉・巡洋艦「宗谷」分隊長
1909年12月1日海軍大学校乙種学生
1911年5月22日砲術学校高等科学生
1911年12月1日砲術学校教官兼分隊長兼海軍経理学校教官
1912年12月1日佐世保予備艦隊参謀
1913年2月21日父「貞吉」死去、享年85歳
1913年8月27日母「峯子」死去、享年71歳
1913年12月1日巡洋艦「新高」砲術長
1914年5月27日横須賀鎮守府副官兼参謀
1914年12月1日海軍大学校甲種学生
1915年5月19日旧長岡藩家老の家柄、山本家を相続
山本家とは戊辰戦争で官軍に抗して戦った河合継之助の参謀格・山本帯刀のこと
河合が戦闘で重傷を負った後、山本は長岡藩の総司令官になったが、戦いに敗れて捕らえられる
朝敵として山本は斬処、家名は廃絶した
1889年の大日本帝国憲法発布に伴う恩赦(1984年に恩赦と記述された資料もある)まで山本家は富士姓を名乗る
山本家は後継ぎがなく、名門がこのまま消滅するのを郷党は見るにしのびず、高野五十六に山本家の相続を懇請した
1915年9月20日正式に改姓届を済ませ「山本」姓になる
1915年12月13日海軍少佐
1916年11月28日海軍大学校卒業
1916年12月1日第2艦隊参謀
1916年12月25日盲腸炎で入院
1917年7月21日軍務局第2課勤務
1917年7月27日教育本部員兼海軍技術会議議員
1918年8月4日結婚願いを提出
1918年10月19日会津若松で農業と牧場を営む旧会津藩士三橋康守の三女礼子と結婚
1919年5月20日米国駐在、ハーバード大学で語学研修
1919年12月1日海軍中佐
1920年6月26日国際通信会議予備会議委員随員
1921年5月15日帰朝
1921年8月10日軽巡「北上」副長
1921年11月12日ワシントン軍縮会議随員
1921年12月1日海軍大学校教官
1922年10月7日長男「義正」誕生
1923年6月20日欧米出張
1923年12月1日海軍大佐
1924年6月10日横須賀鎮守府付
1924年6月17日特務艦「富士」乗組
1924年12月1日霞ヶ浦航空隊副長兼教頭
練習機で操縦方法を学び単独飛行が出来るまでになる
1925年5月14日長女「澄子」誕生
1925年1月21日米国大使館付武官
1926年7月28日ワシントン国際無線電信会議に委員として参加
1926年11月15日帰朝
1928年3月15日軍令部出仕
1928年8月20日軽巡「五十鈴」艦長
1928年12月10日空母「赤城」艦長
1929年5月12日二女「正子」誕生
1929年10月8日軍務局勤務
1929年11月12日ロンドン海軍軍縮会議全権随員
1929年11月30日海軍少将
1930年9月1日航空本部出仕
1930年12月1日航空本部技術部長兼海軍技術会議議員
1932年11月15日二男「忠夫」誕生
1933年10月3日第1航空戦隊司令官
1934年6月1日軍令部兼海軍省出仕
1934年9月7日ロンドン海軍軍縮会議予備交渉日本代表
1934年11月15日海軍中将
1935年2月12日ロンドンより帰国
1935年12月2日航空本部長
1936年12月1日海軍次官
1938年4月25日兼航空本部長
1938年9月30日日露戦争での戦傷により軍人傷痍記章第1号を授与される
1938年11月15日免兼航空本部長
1939年3月23日勲一等瑞宝章を授与される
1939年8月30日連合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官
1940年10月1日紀元2600年式典特別観艦式指揮官
1940年11月15日海軍大将
1941年5月15日従三位に叙せられる
1941年8月11日免兼第1艦隊司令長官
1942年5月29日連合艦隊旗艦「大和」に座乗して柱島泊地を出撃
ミッドウェー・アリューシャン両作戦を指揮
1942年8月28日連合艦隊司令部トラックに進出
1943年4月3日連合艦隊司令部ラバウルに進出
1943年4月18日一式陸攻に搭乗してソロモン方面の前線視察に向かう途中、ブーゲンビル島上空で米軍機の待ち伏せ攻撃を受けて戦死
享年59歳
1943年5月21日戦死を一般国民に発表、正三位大勲位功一級を授与され、4月18日付で元帥に列せられる
1943年6月5日国葬が日比谷公園特設葬場で執り行われ、遺骨は多摩墓地に埋葬される
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